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大森銀山(石見銀山)


●16世紀、世界で最も有名な銀山のストーリー

 日本を代表される銀山として知られる大森銀山(石見銀山)は14世紀に発見されたと伝えられています。その後、本格的な開発は勘合貿易の中心人物・神谷寿禎によってなされました。

 寿禎は間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功します。さらに天文2年(1533年)には灰吹法と呼ばれる精錬方法を導入し大量の銀を生産するようになりました。17世紀ごろ、西洋では良質の銀を「ソーマ銀」と呼ぶ人がいましたが、これは大森銀山(石見銀山)の旧地名「佐摩(さま)」が言語です。銀の量産のみならず、その質の高さが世界に認められていたのです。
寿禎の開発後、約70年間にわたって地元の支配者による激しい争奪戦がおこなわれた上、関が原の戦いに勝った徳川家康はそのわずか10日後に直轄化。銀を尾道へ陸路で運び製品管理を徹底したほどです。

 それ以前には石見の銀はたいてい10キロ西の温泉津へ運ばれていました。しかし、温泉津には具体的な積み出しを記述した史料は一切残っていません。実態は中国の絹織物などと物々交換していたからだといわれています。ここには当時の世界情勢が映し出されています。西洋ではポルトガルやスペインを中心とした大航海時代に突入した一方、東洋では銀本位制の中国が、海上交通や貿易などを制限する海禁制度をとっていました。人が世界的規模で交わり始めていたなか,貨幣価値を持つ銀は,主に密貿易で動いていたのです。

 17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられています。
「ポルトガルより鉄砲伝来、天文12年」、「スペイン人フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来、天文18年」・・・もしかすると彼らの本当の目的は,日本の銀だったのかもしれません。