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岩見銀山


「銀山旧記」が語る伝承
 石見銀山が、いつ、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないが、江戸時代に書かれた「石見銀山旧記」には銀山の発見について以下のように記されている。

 花園院の時代(1308〜1317)周防の大内弘幸が北辰星の託宣で仙山に銀の出ることを知る。時代は下って南北朝時代、石見国を攻めた足利直冬が銀山を手に入れる。しかし採掘の技術を知らず、露出した自然銀のみを採っていたがやがて採り尽くしてしまった。

さらに「銀山旧記」は以下のように続いている。

 大永年中、博多の商人・神谷寿亭が銅を買うため出雲の鷺銅山へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋清右衛門を3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った。
さらに天文2年(1533)博多より宗丹・桂寿という2人の技術者を伴い、銀の製錬法を導入した。

 これが「灰吹法(はいふきほう)」で、日本の鉱山で導入されたのは石見銀山が始めだったと言われている。
 神谷寿亭は博多の豪商・神屋氏の一族であるが、神屋氏が大内氏の下で明(中国)との貿易にも関わっていた。

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戦国時代―銀山をめぐる攻防戦―

 銀山の位置する石見国周辺では、山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は毛利氏と尼子氏の争いとなり、銀山を含む石見国は争奪の的となっていた。
 結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定。銀山と温泉津を直轄地とした。以来慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで毛利氏の支配が続く。
 天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を知行し、銀を豊臣氏へ納めた。朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる石州銀も現存する。(日本銀行貨幣博物館所蔵の「石州文禄御公用銀」など。)
 仙山の山頂付近の石銀(いしがね)地区で行われている発掘調査で、16世紀末〜18世紀初頭の遺構から製錬所や住居跡などが出土し、ここに鉱山町があったことが分かった。


発掘現場の一部。石金地区全体は20haもの広さで、
吹屋(製錬所)、住居、坑道、道、寺、墓などの遺構が出土した。

石銀藤田地区発掘現場

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江戸幕府の支配下へ

 慶長5年(1600)、豊臣政権下で五大老の筆頭として権力を持った徳川家康と毛利氏ら他の大老との対立が深まり、ついに戦いとなった(関ヶ原の戦い)。勝利した徳川氏は慶長8年(1603)将軍となり江戸に幕府を開く。家康は全国の都市や鉱山を直轄地(天領)としたが、石見銀山もその対象となった。なぜなら全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握は重要な政策だったからだ。
 慶長5年11月、家康の重臣・大久保長安と彦坂小刑部が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のある大久保長安が初代の奉行となった。
 「銀山旧記」によれば、この頃安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3,600貫(13,500?s)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜った。「銀山旧記」にはこの頃の様子を「慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数二十万人、一日米穀を費やす事千五百石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り・・・」と記している。二十万人というのは誇張としても、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったと思われる。

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江戸時代の銀山支配

 以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領(天領)として支配された。全国の天領には代官所が設けられ、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたる。
 石見の場合、天領となったのは銀山を中心とする約5万石で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。代官所は大森町に設けられ、59人の奉行・代官が交代で赴任した。当地の代官は、銀山は勿論、村方も支配しなければならない。そこで代官所を「銀山役所」と 「地方役所」に分担し、主に「銀山役所」に勤めたのが「地役人(ぢやくにん)」と呼ばれる土着の役人であった。地役人は80人前後おり、役人・同心(どうしん)・中間(ちゅうげん)という役職によって仕事や俸禄が決まっていた。その他代官所の属僚は代官と共に交代する手付・手代がおり、彼らは「地方役所」に勤めた。



出雲・石見地域(現:島根県)
赤い部分が天領

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産銀量・銀の輸送

 慶長年間にピークをむかえた産銀量はしだいに減少する。

 【灰吹銀出高】
  延宝元年(1673) 357貫25匁     (約1,340?s)
  享保元年(1716) 177貫730匁5分8厘 (約665?s)
  天保元年(1830) 80貫800目     (約300?s)

(参考:山根俊久『石見銀山に関する研究』)

 出来上がった灰吹銀は極印を押し、毎年10月末〜11月くらいに大坂の銀座に納めた。大坂までのルートは大森町から陸路尾道へ、尾道から海路大坂へ、というものだったが、これは大久保長安が奉行であった時から使われたルートだと言われている。


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近代以降の銀山  

 元治元年(1864)、幕府は尊皇攘夷をせまる長州軍を征伐するため軍を出した(第一次長州征伐)。慶応2年(1866)2度目の長州征伐があり、長州軍が大森に進撃、代官・鍋田三郎右衛門は逃亡した。翌年、将軍徳川慶喜が大政奉還を上奏、日本は明治維新をむかえた。この後石見銀山は、以下のような歴史をたどる。

明治 2年(1869) 太政官布告により大森県が設置されて代官所に県庁を設置
明治 3年(1870) 大森県が廃止され浜田県となり、代官所に大森支庁を設置
明治 5年(1872) 浜田沖地震により多くの間歩が水没、休山となる
明治 6年(1873) 旧浜田藩家老・安達惣右衛門が一鉱区を経営
明治 9年(1876) 浜田県が廃止され、島根県へ合併
明治12年(1879) 代官所解体
明治20年(1887) 藤田組によって経営再開、大森鉱山を正式名称とする
明治35年(1902) 代官所跡へ邇摩郡役所を建設(現・石見銀山資料館)
大正12年(1923) 大森鉱山の休山
昭和16年(1941) 「重要鉱物増産法」により(株)同和鉱業が再開発を行うが稼業できず


大森鉱山 永久(えいきゅう)稼所  (明治時代)

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石見銀山遺跡の保存
 こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められている。

〔遺跡の指定〕
 昭和44年(1969)代官所跡・山吹城跡・大久保間歩・釜屋間歩・本間歩・龍源寺間歩・新横相・福神山間歩・新切間歩・安原備中墓・安原備中霊所・大久保長安逆修墓・佐毘売山神社(山神)・天正在銘宝篋印塔基壇の14ヶ所が、平成10年(1998)が国指定史跡となる。その他、県指定・市指定遺跡が多数。


〔建造物の保存〕
 昭和51年(1976)邇摩郡役所の取り壊しに反対する地元の有志により、役所を活用した石見銀山資料館を開館。
 平成10年、熊谷家住宅が重要文化財に指定される。
 昭和62年(1987)大森の町並み約2,8kmが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される。
現在も住民の協力により住居の復元・修理が進行中。町の中程には「大森町町並み交流センター」があり、町の歴史や保存の歩みなどを紹介した展示・ビデオを公開しているほか、コンサートや個展などの会場としてしばしば利用されている。


大森町町並み交流センター(旧裁判所)

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石見銀山に関する主な文献 山根俊久  『石見銀山に関する研究』石東文化研究会1932(覆刻:臨川書店1974)
小葉田淳  『鉱山の歴史』至文堂 1956
『日本鉱山史の研究』岩波書店 1968 他
村井章介  「中世倭人と日本人」(『日本史を海から洗う』)南風社 1996
温泉津町  『温泉津町誌』上・中・下 1995
井上寛司  「中世温泉津地域における領主支配の歴史的展開課程」(『温泉津町誌研究』3) 1992
村上 直  「山陰における天領について」(『地方史研究』148) 1977
「石見国における幕府直轄領と奉行・代官制」(『山陰ー地域の歴史的性格』)1979 他
田中圭一  「石見銀山の技術と経営」(『山陰ー地域の歴史的性格』)1977
「中世金属鉱山の研究」(『歴史人類』22号)1994
江面龍雄  「鉱山経営の実態―石見銀山の場合―」(『歴史公論』6-7)1980
「石見銀山領成立期の支配体制」(『郷土石見』7)1979 他
「石見銀山付御料の年貢体制と農村構造の推移」(『日本海地域史研究』9)1989
葉賀七三男 「世界史から見た石見銀山(上・下)」(『金属6・7月号』)1992
「近世鉱業技術の原点(上・下)」(『金属11・12月号』)1992
大田市教委 『石見銀山遺跡発掘調査概要』1〜8 1984〜1997
村上直/江面龍雄/田中圭一 『江戸幕府石見銀山史料』雄山閣 1979
山陰中央新報社 『輝き再び石見銀山 世界遺産への道』1997
石見銀山資料館 『資料で見る石見銀山の歴史』 1999