生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、
戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山である。
生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられるが、
詳細は不明。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊により、
石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は直轄地とし、
佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源とした。
江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に
最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。
宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という
最上級の鉱山に指定されている。
慶安年間(1648年〜1652年)頃より銀産出が衰退し、
享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称した。
江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。
明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、
フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエらにより近代化が進められた。
明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に
三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、
坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより
採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。
坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。
現在は「シルバー生野」として史跡となっており、のみの跡も
生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館には
「和田コレクション(和田維四郎)」をはじめとした多数の貴重な
鉱物が展示されている。